昭和48年03月16日 朝の御理解
御理解 第71節
「ここへは信心のけいこをしに来るのである。よくけいこをして帰れ。夜夜中、どういうことがないとも限らぬ。おかげはわがうちで受けよ。子供がある者や日雇取りは出て来るわけにはいかぬ。病人があったりすれば、捨てておいて参って来ることはできぬ。まめな時ここへ参って信心のけいこをしておけ。」
稽古と言うものは、その身から打ち込んでの信心の稽古の時間をとらなければできない。それにはやはり体が悪いとか何とかお願い事があるとかという、お願い事で心がいっぱいになってる時なんかに本当の稽古が出来る筈はない。本当の稽古はやはり壮健な時、ここへ参ってと仰る。お互い本当に日々おかげを頂いて、まあいうなら平穏無事毎日おかげを頂いておるというときに、本気で信心の稽古に通うて来なければいけないと思う。ここへは信心の稽古に来る所。
だからその信心の稽古をさせて頂く姿勢と云うもの、同時に又は稽古をさせて頂く一つの焦点、又は手がかりと言った様なものを何処に置くかと言う事です。私は何というても、ここでは信心の稽古と言う事は、私の信心、いわゆる大坪総一郎の信心を先ず頂くというところから始められなければいけないと思う。又私が焦点としておるところをやはり皆さんも焦点となさらなければ稽古が稽古にならんのじゃないだろうか。自分よがりのものになってゆくのじゃないだろうか。私はそう思うです。
昨日こんなに沢山手紙がきた。あっちこっちからお礼の手紙がその中の一つ二つを少し読んでみましょう。先日から親教会でこちらから出ておる、「和賀心時代を創る」という御本をちょっと読ませて頂いたと、是非私共の教会にも一冊分けて頂けんだろうかという御相談の手紙が来ておりました。島田市の島田教会、中谷という先生からです。それを先日から末永さんが送っておりました。それに対するお礼の手紙が、お礼と同時に手紙が参っております。
「御本を精読させて頂きました。先生の頂かれました御信心を是非私も頂きたいと思わせて頂きます。」と、こう御本を読ませて頂いて、それも何回も繰り返し読ませて頂いて先生の頂かれました御信心を是非私も頂かせて頂きたいと思います。私はだから信心の稽古のです、私が頂いておる信心を先ず頂こうという信心に私はこれからそれを感じました。手探りで何処をどう頂くかと、そんなら御理解を頂くから、御理解を元として言いますけれどもその御理解とてもです。
その御理解を親先生の頂かれた信心を、どう頂くかと言う事が信心の稽古であり、その親先生の頂かれた信心を、日々の御理解に依って、いよいよ肉にも血にもして行こうという私は頂き方、又そう頂こうとする事が信心の稽古だと思うです。次にはこれは若松教会の吉永と云う先生からお礼の手紙が来てる。「合楽教会の信心の器の大きさ、和賀心時代の創造にまい進しておられる生き生きとした働き(お一人お一人の)等に大変魅力を抱かせて頂きました。
これからも先生の御教えを機会ある毎に頂きまして、私自身の和賀心時代を実証させて頂きたいと思います。」と言う事であった。私は本当に素晴らしい事だと思います。ここへ見えられてここで、いわゆる和賀心時代を創るという、私がお話をした訳でもないのですけれども、そういういうならば、スケールの大きい信心。合楽教会の信心の器の大きさ、それは和賀心時代の創造にまい進しておられる、生き生きとした動きお一人お一人等に、大変魅力を抱かせて頂きましたと、そして私自身の和賀心時代を、実証させて頂きたいと思いますと。
ですからここでは私の信心を頂くと言う事が信心の稽古であり、そんならその焦点とするところは、今合楽では和賀心時代を創ると、それには先ず自分自身の心に和賀心時代の実証というものを吉永先生じゃないですけれども、先ず頂いて自分一家の上に和賀心の過程を作りそしてそれを和賀心時代と言う事は、世界に呼びかけた事です。和賀心時代を作っていこうと、その為にはどうしても五つの願いというものがなされなければ出来ないと言う事になってくる訳です。
だからそういう願い、そういうお二人の先生方の、「先生のご信心をこれから本気で頂きたいと思うと、又頂かせて下さい」というておられる事は、いうならば私の信心を頂きたい。そんならここで信心の稽古をさせて頂くと言う事は、結局は私の信心を頂くと言う事になるのだ。そこで先生はこういう場合、こんな時どうあられるか、どう思われるだろうかと言う事になって来る。一つの形の上でも先生の信心が親先生の信心ぶりというものが身に付いてこなければならんのです。
しかもその目指しとするところはです、先ず私の心にです、和賀心時代の実証がなされる程しのものを頂いて、先ずそれが家庭の周囲に広げられていこうという大変な大きな願い。成程スケールが違う、器が違うとまあ吉永先生は合楽の信心から感じとられた訳です。ですから皆さんの場合はどうだろうか。もうこの事がいっちょおかげ頂きさえすればよかと云う様なことで信心の稽古になっとらん。
先日原さんが、それこそ喜びいっぱいでのお届けをされますのに、本当におかげを頂いて一家を挙げてこうして信心の稽古にまい進して来る。もう私の方の良子さんが、もうここへ着かせて頂いたら、もうそれこそ走る様にしてお広前に向かっていく生き生きした信心の姿を見て、もう本当に有難いと思います。もう自動車から降りたらツーッツと走って、私の信心の姿勢は先ずそこから始まらなければ駄目です。ああもうお参りの時間じゃからぼうちぼうち参って来るごたることじゃ、先ずそこから落第です。
もうそれこそです、その辺まで来たならば、もうそれこそこちらから手招きしよるごたる思いがね、先ず必要なんです。飛び込んで行くようなそういう姿勢が必要なんです。これはもう絶対です。私がじっと御神前に出たいのを三十分間控えで、いうならじっと四時の時間を待ってる、そして四時かっきりに御神前に座らせて頂く時です、もう拍手を打つ暇もない程に私と神様との、いわゆる心というものはもう途端に、火花を散らすような交流が始まるです。
だから皆さんがです、合楽に着いてもうぐずぐずどんしてから来るじゃなくてね、もう走り込んで来る様な勢いがね、先ず私は信心の姿勢の第一歩にいると思うのです。良子さんというのはあちらの長男の嫁の事です。信心の家庭に嫁入って来て仲々嫁御が信心しませんという多くの人が有る中にです、最近では嫁が先に立ってお参りをさせて頂くようになった。親子夫婦五人の者がです、それこそ毎朝毎朝お参りが出来るようになったと言う事が、もう何を置いても有難い、こんな有難い事はないというのです。
しかも嫁のあの信心に対する勢いというものが私は後ろ姿を見てから拝むごたる思いがするとこう言うておられる。それが私は合楽の信心を頂こうとする姿勢だと思うです。私の信心を頂くと言う事になってくるとです、どう言う事がおかげになっておるかというとです、それこそ歌の文句じゃないですけれども、「鐘が鳴るのか、撞木が鳴るか、鐘と撞木の合が鳴る」都々逸の文句です。
もう本当に私の心の中に、神様のおかげを頂かなければ立ち行かんという、一心の思いなんです。神様のおかげを頂かなければと、もうこれより他はないです。これだけは自分でする。これだけはお願いせんでん、自分で出来ると言った様な事がひとつもないと言う事です。もう一日中の動き全部がです、神様のおかげを頂かなければ、出来ることではないという信心です。
そこにです、例えばそんなら神様も又大坪総一郎おって呉れて難儀な氏子が助かるというその神様の思いと私の思いがここに火花を散らすことになる。そこで例えば、四神様の御教えにも有りますように、おかげは神から出ると思うな、氏子の心からとこう仰る。けれども、私の場合はそれは神様からのお言葉であり、私からの思いは、いいえ神様のおかげを頂かなければもうここ一寸動かれん程しの私なんです。何をどうさせて頂くでもあなたのおかげを頂かなければ出来ることではないという思い込みなんです。
同時におかげというものは神から出ると思うな、氏子の心からと仰る。そういう心で信心させて頂くと言う事がです、成程神様と私の神様だけでもない私だけでもない、神様と私の合間から良いものが生まれて来ると言う事になるのです。それが合楽のおかげなんです。しかもそのおかげを頂くならです、只どうぞ私一家がと言う様なものではなくて、大きな大きな願い、和賀心時代を創って行こうという程しの大きな願いを立てての、そこに焦点を置いての信心の稽古。
その稽古というのは、何処に稽古の焦点を置くかというと、先ずは親先生の信心を頂くと言う事になる。そこで親先生の信心を頂くからには、先ず真似からでも入って行かなければならない。それを第一歩の姿勢というのがです、神様のいわゆる今もうそれこそ、走り込んで行く程しの生き生きしたもの、拍手打って御祈念して頭を下げた途端に居眠りがつくと言った様な信心ではもうそこから間違っている。
そういう姿勢を以てです、親先生の信心を頂くと言う事。しかも折角頂くならば大きな信心がよい。器が大きいスケールが違う。そういう大きな願いを立てて、そして私の信心を頂いて行こうという。そしてそのそんなら内容と言う事はどう言う事かというと、もう神様のおかげを頂かなければ立ち行かん。神様はおかげというものは神様から出るとじゃない、お前達の心からぞとこう仰っておられるけれども、いいえいいえ神様のおかげを頂かなければ立ち行かんという神様へ対する一つの信頼感。
そこに神様からの信頼が、又こちらへ返ってくる。その信頼と信頼が一つになって、その合間から生まれて来るところの音色。鐘が鳴るのか、撞木が鳴るか、鐘でもなければ撞木でもない。鐘と撞木の合から良い音色が出て来ると云うおかげ。そういうおかげを頂き表していく為にも、ここには信心の稽古に来るところと仰る。稽古の焦点をです、今日は皆さんに聞いて頂いた。それには先ず親先生の信心を頂くというところから始めなければならんという訳ですね。
どうぞ。